2014年3月10日月曜日

臍帯血

「出産前にやりたかったことシリーズ」の1つ。

臍帯血の準備。



さいたいけつ。こと、臍帯血。
臍の緒と、その中にある血液のこと。
裕也さんも、私が話すまで、知らなかったみたい。
意外と知られていないのかな。


http://www.saitaiketu.info


ぼんやりと頭の片隅にあった、臍帯血のこと。

「この時にしか獲れない、ムダにしてはいけないもの」

というイメージが、ずっと頭から離れなかった。



日本の産院に、臍帯血の案内のパンフレットが置いてあった。

出産はタイだという頭があったので、パンフレットは取らず、詳しい中身も見ていないけれど。

タイに来たら、出産までに調べなきゃ、とは思っていた。



「幸せのお裾分けです。」

小さい頃、そんなメッセージが印象的な、臍帯血バンクのCMを見た気がする。



臍帯血には多くの造血幹細胞が含まれ、それらは成長後も、多くの再生医療、主に血液系の細胞の再生のための移植の材料として、使うことができる。

何も言わなければ医療廃棄物として捨てられてしまう、臍の緒から採取する。
採取には何の負担も痛みも無いけれど、出産したそのときにしか採れないモノ。

この「造血幹細胞」。
他人と一致することはごく稀で、病気になり移植が必要になった場合、「骨髄バンク」なんかで適合者を探すのだけれど、合致する確率は数百万分の一と言われている。
兄弟がいる場合は、兄弟間で合致する確率は、25%とのこと。

ちなみに臍帯血以外で造血幹細胞を採取する場合、背骨に注射をして骨髄液を採取するので、これは大変な手間と痛みを伴う。



移植を必要とするような病気になることは、本当に稀なことだ。

でも、どんなに健康に気を配っていても、なるときは、なる。
病気って、そういうもの。

友人の子供が、小児白血病になった。
私よりもずっと健康そうなお母さんの元で、絵に描いたように健やかに育っている子が、突然だった。

白血病といえば、骨髄バンク。
そんな図式が頭の中にあった。

けれど、前述したように、適合する人と出会えることは、すごく稀。
適合したとしても、他人の血を移植すると拒否反応が大変で、それで死に至るリスクもある。

でも、だからこそ、1人でも多くの人が、臍帯血バンクに寄付をしないと…と思っていた。



そんなキッカケもあって、心に残っていた、臍帯血のこと。

まずは先生に聞いた。


「stem cell (造血幹細胞)のことでしょう?

もちろん採取できますよ。

たいていの日本人は、あまり興味が無いわよね。」


そんな、意外な反応が返ってきた。


「臍帯血は、病院とは関係がないのよ。

自分で問い合わせてね。」


と、いくつかの会社のパンフレットを渡された。



「臍帯血=病院を通じて寄付するもの」

というイメージだったので、この展開にビックリした。



臍帯血を集めている会社の、パンフレットだ〜。

大小いろんなパンフレット。

英語表記、タイ語表記、全部で4種類。

この病院提携の会社、ということか。



家に帰ってから、改めて日本語で「臍帯血」についてググってみた。

この記事冒頭のサイトを見て、やっとなんとなく、事情がわかった。



「公的バンク=寄付」と、
「民間バンク=個人保管」があるのか。



つまり、あのパンフレットの会社は全部、民間経営の、個人保管用の臍帯血保管会社なのだ。



コレを知ったのは、予定日1週間前。

もう既に、身体も頭も動かない。

お腹も重い。



臍帯血…どーしようかな??



「じゃぁ」と。

下調べから問い合わせ、営業さんとの相談まで、仕事の合間に、裕也さんがささっとこなしてくれた。



私は。。

裕也さんが聞いてきた、「個人保管」の値段を聞いて、ビックリ!



「英語の練習になるから」

くらいのモチベーションで、調べてくれたという、裕也さん。

頼んだのは、わたし。



ポコが出て来たら、この先いろんな事にお金が掛かるようになる。

それは、2人とも良くわかっている。

その上で、臍帯血の「さ」の字も知らなかった裕也さんの意思は、意外にも、

「個人保管しよう」

だった。



「臍帯血の個人保管は、高い。贅沢品。」


そんなイメージだったから、全面的にその意見を、最初から肯定することはできなかった。

けれど、いろいろ調べた上で、直感的に裕也さんが下した判断だろうから、反対をしたい気持ちもなかった。

むしろ、何でそう思えたのか、もっと知りたいと思った。

お産までの時間が無いなりに…私も、まずはこの営業さんと、直に話してみるか、と。

サインをしなければ、契約にはならないのだし。

とりあえず、GO。



それまでに、私なりにナゾな点は調べた…というより、先生と営業さんに聞いた。



どうやらタイでも臍帯血の寄付は、赤十字で受け付けている。

そうか、赤十字に寄付できるじゃないか。

けど…、どうやらウチの病院と赤十字は、提携していない。

そうか。
よく考えてみたら、私立の病院と、公立の病院だ。

先生に「寄付はできますか?」と聞いてみたら、
「タイでは寄付は足りているから、大丈夫。
タイ人はみんな、子供自身の為だけに、臍帯血を取っておくのよ。」と。



へ??



ただでさえ型の合いづらい造血幹細胞が、公的バンクに足りている、なんてことがあるのだろうか??




違う。




私が「足りている」と直訳した、さっきの先生の言葉。

先生は「พอแล้ะ / pho le」と表現していた。

これは「พอแล้ว / pho leao」のスラング表現で、「もう十分だ」っていうのを強調している表現でもある。


これ、実際にモノが十分にあるときにも使う表現だけど。

これ以上の機能充実が考えられない状態や、もうこれ以上はどうしようもない、というときにも使う。



そうなのだ。

なかなか適合しないからこそ…

親自身で、我が子の臍帯血を取って置くのだ。



「助け合いの和」精神の日本人には、あまり馴染まない考えかも知れない。

「滅多に適合しない」からこそ、個人保管せずに公的バンクに頼る事は、ある意味では無責任な事なのだ。

「子供」に甘いタイ、何よりも「家族」や「血縁者」を大切にするタイ。

自分のこと、自分の身の周りの人のことは、自分達で守るタイ。

お金を出すことでその子の「臍帯血=造血幹細胞」を、保管しておけるのならば、そうするのが(富裕層の)タイ式。


「タイでは個人保管が当たり前」

これはもちろん、この病院に来れるような、富裕層のタイ人にとっては、だろう。

けれど、同じ病院に出入りする者同士。
この病院に勤める人にとっては、普通の日本人も、タイ人の富裕層も、同じレベルのお客様だ。

そして、この層の人間においては、公的臍帯血バンクは必要ない…というか、機能を成していないのだ。
みんな、個人保管しているから。
「もう十分」なのだ。



そんな中で、私達がコンタクトしたのは、ロンドンにある「民間臍帯血保管会社」の、タイオフィス。

営業さんは、私が予想していたような、ガチガチのスーツの、パリッとした西洋人男性セールスマンではなく。

こざっぱりとした雰囲気で、さらりと洗いざらしのポロシャツを来た、良い意味で化粧気のない、ナチュラルな細身のヨーロピアン女性だった。

ハイソな雰囲気の、タイ人の若いアシスタントの女の子が一緒だった。

以前日本の会社で働いていた、という日本贔屓の雰囲気の彼女は、私がタイ語を喋れるとわかったら、いろいろ教えてくれた。

この会社のお客様は、ほとんどがタイ人で、その他は西洋人であること。
(普段の営業では、彼女が通訳も兼ねてアシスタントをしていると思われる。
今回は日本人だったから、日本人に馴染みの深い彼女が、アシスタントに来たのだろう。)

この病院に来るタイ人は、ほとんどが臍帯血を個人保管していること。

個人保管の他に、寄付をするタイ人も、たくさんいること。

日本人には、とにかく「臍帯血」のことは、知られていないこと。



臍帯血の個人保管に差し当たって、似た性質のものとして比較して考えたのは、やはり「保険」だった。



けれど考える程に、「保険加入」と「臍帯血の個人保管」は、違う。



「安心」を買う。その点は似ている。

でも、保険金で、病気は治せない。

お金は、治療の幅を広げ、治療の手助けをしてくれる。

けれど「臍帯血」は・・・
無きゃ、使えない。

いわば「治療の切り札」のようなもの。

しかも病気だけでなく、ケガに使うこともできる。

再生医療の発達の目覚ましい現代では、この先の治療に対して、大きな可能性も含んでいる。

アルツハイマーなんかの脳細胞の病気も、この先、臍帯血で治せる可能性があるのだ。
ひょっとしたら、この子が大人になる頃には…


今はまだ値の張る『臍帯血の個人保管』。

でもこれ、当たり前になっちゃう日が、そう遠くないうちに来るかも知れない、と思った。

日本で臍帯血バンクができたのは1993年だって、どこかに書いてあったかなぁ。

私達が生まれた頃には、まだできなかったことだ。

この10年の間に「臍帯血の個人保管」ができるようになり、実際に利用した人がいて、治癒の症例も増え続けている。

技術の革新というのは、どの時代にも目覚ましく、あるとき急に進んだりする。
レーシックなんかもそうだ。

この子が大人になる頃…臍帯血を利用した再生医療は、確実に幅を広げているだろう。

その一方で、日本では民間の臍帯血バンクで、経営が成り立たなかったこともあるとか。

その上で私達は、一生に一回の「臍帯血採取の機会」を、どうするのか。

これはもう「生き方」に通じる話。

よくよく、2人で話した。



そしてこの臍帯血を、私達は、この子に初めて作ってあげる、初めての財産にすることにした。

臍帯、そのものも含めて。

(日本では血液のみの保管のようだけれど、このロンドンの会社では、いろいろプランが選べる。
臍帯そのものまで保管するか否かで、臍帯血の利用可能範囲も、大きく異なってくる。)



もちろん、ずっとずっと、元気でいてくれるのが一番!

何よりもそれを望む。



その一方で。

今回の意思決定をしたことで、経済面含め、2人一緒に、今までよりもっと大きなビジョンが描けるようになった!

この子の一生において、臍帯血を、最初で生涯の財産にできる親でいよう。

この先も、教育プランや住む地域について、いろんな選択肢が出てくるけれど、周り云々ではなく、常に自分達らしい、オリジナルな意思決定をしていこう。

本当に豊かな生活をしよう、と。



そんな「これからのビジョン」を持つにも繋がった、今回の臍帯血のお話でした。

ポコに成長させられているなぁ。






2014年3月7日金曜日

チェンマイ行きをやめた理由

「出産前にしようと思ったこと」は、いろいろある。

そして実は、まだやり終えていないものも、いくつかある。



去年の今頃出た、チェンマイ行きの話。

あれを断った本当の理由を、ちゃんとこれまで、書いていなかった。

だから「あれ?チェンマイじゃなくて、バンコクになったの?」って、「???」って思っている人は、たくさんいると思う。


実は、チェンマイ行きを断ったのは

「子供ができたら困る。
1年は作らないように約束してほしい。」

と言われたから。


経営者視点で見れば、仕方のない意見だ。
と、少なくとも私自身は理解できた。

(ちなみに日本では、マタニティハラスメントと言われ兼ねない、非常に繊細な事象ではあります。。
が、私個人としては、マタハラ云々別として、相手の身になってみれば、理解のできない意見ではありませんでした。)

新設のリトリートで、唯一の日本人マネージャーが、まだ経営も本調子にのらないうちに妊娠したら、経営に差し支えるのは目に見えている。

日本でも、私くらいの世代の女性達の転職の面接で、こういう話が出るっていう話を聞いたことがある。

けど。
周りとか、世間の云々とかは、どうでもよく…

私は単純に、妊娠を避けなければならないような結婚や生活を、もう二度としたくなかった。


前記事含め、私の「めまい」体質については、ときどき書いているけれど。

この「めまい」を患うようになったキッカケは、前の旦那さんと結婚する前、この旦那さんとの間に恵まれた子を、諦めた事が原因。

いわゆる「病院」には、婦人科から内科から耳鼻科、めまい外来や心療内科まで、全部行った。
たくさん検査も受けた。
でも、身体はどこも悪くなかった。

思い切って「統合医療」の扉を叩いた。
そこで一気に改善へと進めてくれたのは「ホメオパシー」だった。

生活と身体が連動していることを、実感した。

そこからいろんな流れで、出会うがまま。
ヨガもやったし、フラワーレメディやアロマもやった。
タイで出会ったマクロビオティックでは、身体が根本から変わっていくことを実感した。



身体が変わって、人生や生き方が変わった。



変わった、というより、
「本来の自分へ還る」というのが正しい。



本来の身体を取り戻すことで、本来の自分が望む人生を、思い出せるようになった。




それまで、ふにゃふにゃのへにゃへにゃで、いつもめまいがしていて、頼りなかった自分。

「こう生きる」が取り戻せたら、シャキッとした。



でもこれは、元旦那さんにとっては、想像と理解を超えた変化だった。

彼もまた、乗り越えるべき人生の、過渡期にあった。



私は、一度妊娠を歓迎されなかったパートナーと、もう一度同じチャレンジをしようとは、思えなかった。

心のどこかに「どうせ妊娠しても歓迎されない」という想いがくっついてきて、離れなかった。



「許せていない」



そういう自覚があり、相手を許せていないということは、同時に自分を許せていないことだった。

彼との間に子供を持つことを考える度に、それを自覚した。

23歳の妊娠から、25歳での結婚を経て、計6年も経っていた。

29歳だった。

これを乗り越えて、この人と子供を考えるには、あと何年掛かるだろう、と思った。



30代になる前に、1人になろうと思った。

離婚を決めた。



タイでの生活、海外での生活は、とても気に入っていた。

海外生活は、小さな頃からの夢でもあった。

けど、手離した。




本帰国後の、日本での3年…

これは正直、離婚して本帰国している、三十路の私にとって。

「修行」そのものだった。




でもこの3年で得たもの、学んだ事は。

大き過ぎるくらい大きく、
抱えきれない程に、多く。

もちろん、ココには書ききれないほどで。


良い学びを得られる人達に出会えた。

最高で最幸の仕事に出会えた。

自分を愛される価値のある人間だと、思い出させてもらった。

裕也さんに出会えた。

とても価値のある、修行期間だった。




チェンマイ行きの話に戻る。

私は「気を付けても、私達人間の意思だけでは、避けられない妊娠もある」ということを、経験的によく知っていた。

それによって身体を壊した事があること、だからこそ自然療法の良さがわかることも、経営者側に説明していた。

「1年は子供を作りません」と契約書に書いたとして、もし実現できなければ、そのときの私達の身の行き先は、どうなるかわからなかった。

そして、そもそも「自然の力」を体感するためのリトリートで、マネージャーである自分が、そんな不自然な生活をしなければならないことにも、違和感を感じた。


しかしながら、子供だって、できるかどうかもわからないんだし。

やりたいと思える仕事だった。

迷いに迷った。



もし、チェンマイに行ったとして。

裕也さんとも一緒にいられる。
年収も上がる。
やりがいのある仕事ができる。
海外暮らしができる。


でも、もし、赤ちゃんができたら?


歓迎されない。
そのタイミングから職を失い、異国で経済的に苦労することになる。
本当はめでたい状況なはずなのに、方々に謝らなくてはいけない状況になる。
できたタイミングで、私のキャリアも終わる。
ちゃんと夫婦をしているのに、自然な流れなのに、我が子を気持ち良く迎えてあげられない。



そんなことを考えると、つらかった。

もうそんな思いをするのは、イヤだった。

「自然」に抗わなきゃいけないのは、もう御免だ。

あとは、直感だった。




断わった。

そのときから、プッツリ連絡が途絶えた。

これまでのやり取りは何だったんだろう?と思うほど、あっけない終わり方だった。



チェンマイ行きを断わった、この理由について。

「妊娠・出産」に関しては、デリケートなお話でもあり。

いろんな人が、いろんな意見を持っていることも、よくわかっている。

だから去年はいったん、口をつぐんだ。




結果…こんなに早く恵まれるとも想像していなかった。

裕也さんという最高のパートナーとの間に、この子はスグ舞い降りて来た。

「待っていました!」と言わんばかりに。



別なキッカケから、タイに住めることになろうとも思っていなかった。

前職の仲間達は、みんな私の妊娠を喜んでくれて、お客様も含め、みんなが私のお腹が大きくなる事を楽しみにしてくれた。

体調の悪いときはフォローしてくれた。

裕也さん含め、職場の仲間やお客様、みんながポコを守ってくれて、1人で頑張らなくていいんだって、安心させてくれた。

これは、何物にも代え難い、恵まれた環境だった。

手放さなくてよかった、と思った。



妊娠生活に関しては。

23歳で、計画外の妊娠をしたとき、ごく初期にも関わらず、酷いつわりだった。

不思議なもので、全てを受け入れられる状態でした、今回の妊娠では、酷いつわりは全然無い。

もちろん、受け取った遺伝子も違うし、私の身体も違う。
年齢も10年近く違う。
不思議なものだ。



チェンマイの話がなければ、去年の4月、裕也さんと一緒に、タイへ出張することも無かっただろう。

あの出張で、私達は実感したのだ。

2人一緒に、海外暮らしがしたいって。

そして年内に、実現してしまった。

物事が決まる時・実現する時は、こちらの意思云々より、何事も待ったなし。早いものだ。




去年の今頃、1年前。
チェンマイ行きの話をしていたのか〜、と思うと、不思議な気分。

そしてもうすぐ、私達の前に、天使が姿を見せてくれる。




案の定、こうして書くだけで、けっこう体力使ったけど、、

やっぱり書いてよかった!

さっぱり!




これで気持ち良く、ポコを出迎えられる♡




待たせたね、ポコ。

思いっきりパパとママに甘えに、お外の世界へ出ておいで♡



妊娠39週、歯痛

予定日1週間前の、妊娠39週目。

38週目で食中毒になり。
その回復と前後しながら、39週目、今度は歯が痛くなった。

いつ産気付いてもおかしくないこの時期に、これまでの不調が順を追って出始め、ビックリ。

これまで大きなトラブルもなく、ほとんど順風満帆な妊婦生活だったけれど。

「何事も中庸が一番。±0。」

と教えてくれんばかりに、出産直前になって、イロイロ出てきた。


私の場合は、妊婦生活でいつが一番大変だったって、臨月かも。


つわりは0ではなかったけど、酷く気持ち悪くなることはなかったし。

7ヶ月まで良い気分転換に立ち仕事もさせてもらったし、何もやれなかったなりに、海外引越もできた。

けれど「胸よりお腹の方が大きくなった」と感じ始めた、8ヶ月後半くらいからかなぁ。

大きくなったお腹に胃が圧迫されて、食べられなくなってきた辺りからがツラかった。

枕を高くして寝ると、今度は腰が痛くなったりして。
激しい胎動や、ホルモンの影響で、眠りづらいし、夜中の変な時間にお腹減ったりして。

「臨月にもなれば勝手に増えるだろう」と思っていた体重も、私の場合、全然増えてくれない。

食中毒の影響もあるのかも知れないけれど、食べられる分は食べているハズなのに、増えない…

いったん+6kgまでいったのに、いつの間にか+5kgに戻っちゃった。

ふと鏡の中の自分を見ると、頬がこけている〜。



と、取られているぞ、ポコに…!!



良質な栄養を取ってくれているなら、いいけど。
産後って、母乳あげたりするのに、私の蓄え減っちゃってて、体力やら諸々、大丈夫かな??

と、不安になってしまった。。

こうなってくると、食中毒や歯痛でご飯が進まない…以前に、キッチンにも立てない自分を、自己嫌悪。

「うぅっ。臨月なのに、ポコ、お腹減ってるよね。。ママ、何もできず、ご飯も食べられなくて、ごめんね。」

って、そんな心境。


さすがに、日本と実家が恋しくなった。。


歯痛に関しては、歯の痛みそのものより、付随してくる頭痛・肩凝り、それによって出てくる体質的なめまいが、一番ツラかった。


そうそう。
今回の出産で、この体質は卒業する予定だけど。

20代半ばから患うようになった、この「めまい」体質。

私の場合は、頸椎-肩-腰と、背骨周辺と連動して出て来がち。

なので、身体の前面に向かって5-6kgの重力が常に掛かっていると、クラクラ来がち。

立ちっぱなしをしないように、適宜横になって、背骨を休めるようにしている。

骨盤ベルトは、寝るときも着けている。
立つ時はマウンテンポーズ、
座る時はなるべく胡座。
それでもお尻、太腿、ふくらはぎの筋肉に、限界を感じる時も。

ずっとヨガもやっていたし、立ち仕事もしていたのに、私ってこんなに筋肉無かったのね〜。
やっぱり昔の人は足腰よく使って、丈夫だったんだろうなぁ、なんて、勝手に関心しちゃった。


一週間くらい掛かったけど、今朝は歯の痛みもだいぶ良くなった!

そのお陰で、頭痛・肩凝り・めまいも良くなった!

で、今朝はちゃんとご飯を食べられた!!


うれしいょ〜(T_T)


ポコ、ご飯お待たせ。



妊婦生活も終わりに近づいて、胃腸だけじゃなく、こんな風に「禊」が続くとは、思いもよらなかった。

この歯は、ずーーっと前の小さな頃に、神経を抜いた歯のもの。

いわゆる「根幹治療」というやつで、何かのキッカケで急に痛くなるんだけど、1週間くらいで炎症が鎮まって痛みがとれる。

前回痛くなったのは、1年半くらい前、厳島神社へ行った時。
あの時も「禊」としか思えなかったな〜。

痛い時は治療できないから、痛みが取れたら治療しなきゃなんだけど、妊娠したことを理由に放置してた。

歯が痛いうちは、ポコも遠慮して出てこないだろうって思ってたけど、ほんとにそうだったな。

空気読んでるなぁ。親孝行。



もうこれ以上は「禊・デトックス」は出てこないと思う…けど。


とりあえず本調子に戻るまでは、ノンビリやっていこうと思う。




2014年3月3日月曜日

雛祭り

今日は雛祭り♡

今まではずぅっと祝ってもらう側だったけれど。

こうして赤ちゃんを授かると、我が子が健康で順調に育ってくれることの有り難みと、それに感謝したくなる気持ちが、なんだかよくわかる。

出すのも大変な雛人形を、私が大きくなるまで、お母さんよく出してくれたなぁ。

転勤族だったし、弟の兜も含めたら、お引越しの度に、お手入れも大変だっただろうに。



親になってわかることって、ほんとにたくさんあるもんだ。




妊娠して大好きになった食べ物の1つに「寿司飯」がある。

日本にいた頃、手軽な手巻き寿司が大好きで、納豆巻きに河童巻き、暑い夏のつわり時期にも、よく食べていた。



先日の食中毒から、まだ体力回復していないのもあり、徒歩5分のスーパーにも、お買物へ行く気になれず。

家にあるもので、「ちらし寿司」っぽいものを作ろうと思った。



粟入りの白飯を炊いて、酢飯にして。
塩揉みしたキュウリ、たたいた梅干し、すりゴマ、海苔を合わせたものを混ぜた。

写真撮りはぐったけど、暑いタイではなかなか食べやすいご飯になった。(^-^)


少量残った分で、ミニお結び。
明日のお楽しみ♪



最近は「お家にあるもので」な、ご飯が充実しています。


それでも自分で全部作るのは大変だから、嗜好品は買って来てもらう。



「サスティナ(バンコクにある日本人経営のオーガニックショップ)で、帰りに何かオヤツ買って来て〜」

と、裕也さんにお願いした。

何が欲しいか聞いてくるかな?と思ったけど、何も聞かずにサスティナの袋を下げて帰って来ました。


結果、中身は私が食べたかったものばかり!ヾ(@⌒▽⌒@)ノ


大福、天然酵母のあんパン、クッキー♪

よくわかったね?!
(私が食べたいって、ずっとブツブツ言ってたのかな?)

日本から持って来た冷茶を淹れて、お夕飯の後、美味しく頂きました♡



桜餅ではなかったけれど、あんこ入りのお餅ー♡


こうして大事にしてもらえるのは、女子として、とってもウレシイことですなぁ♡


2014年3月1日土曜日

旦那さんのこと

体調を崩している時にこそ感じる、家族やパートナーの有り難み。

久しぶりに惚気がてら、裕也さん、こと、旦那さんのことを書こうと思う。


今夜、裕也さんには、できたらポコが出て来る前に済ませたい、大事な用事があった。

でも、私がお腹を降していて、グッタリ。


ただでさえ、1人でいるのは心細い臨月。

たぶん、とってもとっても行きたかっただろうけど、キャンセルして、今一緒にいてくれている。

これは、里帰りせずに2人での出産&育児をする予定の妊婦的に、とても有難いし、頼もしい判断。

ポコもパパが側にいてくれて、とっても安心している様子。



出産後に子育てに勤しみたいからこそ、臨月のうちに予定をこなしてしまいたいー!というパパも、いるんだろうけど。

臨月のママは、小さなことでも、けっこう大変。

それに「子育て」は、お腹に宿った時点で、もう始まっている。



臨月にもなると、お腹の子も、本当に立派な、1人の意思ある人間。

薄くなったお腹の皮の中で、外の世界のいろいろを察しながら、その子なりの反応を返してくる。

妊婦ママと一緒にいて、そんな2人をケアすること。
それ自体が、もう子育てになっていると思う。



裕也さんは、以前、何のキッカケでもなく、ある日突然、

「ここまで(大きくなるくらい)ポコを育ててくれて、ありがとう」

って言ってくれたことがある。



本人も覚えているか、わからないけれど。

お腹が大きくなって、仰向けで寝たり、グッスリ寝たりできず、何かと不便な妊婦生活の中で、この言葉はとてもうれしかった。

残りの妊婦生活も出産も、楽しんで乗り切るかー!って思えた。



それに毎晩、自分は入らない湯船をキレイに洗って、私とポコを温めてくれる。

どんなに疲れている日でも、コレだけは欠かさない。

だから毎日、
「今日もお風呂が気持ち良いね」
って、ポコに話し掛けて入浴する。

ときどき入浴中、裕也さんもお腹のポコに会いに来て、ポコの胎動と3人、バスルームで親子の時間をする。

きっとポコにとっても、幸せな時間。

お腹の中まで、お風呂の温度と一緒に、パパの愛情が伝わっているといいな。



そして「立会い出産」は稀でなくても、日本のように「出産直前の両親学級」はないバンコク。

早めに日本人会に入っていれば、そこで機会はあったかも知れないけれど。


そんなわけで、私だって初めてだけど、「お産」のこと勉強して、伝えるのは私の役目?

きっとイメージだけでいきなり現場に立ち会うと、いろいろ後で大変なこともあるよね…

と、私はもともと健康オタクというか、特に自分の身体に起きていること、起こりつつあることに関しては、自分なりに深く学びたいタイプなのもあり。

「お産」に関しても、気になる限りのことを情報収集。



まだまだ「バースプラン」という考え方は、日本には浸透していないようだけど。

私は自分のため、一生に一回の本当のポコの「お誕生の日」のため、家族の幸せのためにも、キチンと「お産哲学」を持ちたかったし、「バースプラン」も、初産の素人の自分なりに、キチンと考えたかった。



何事にも、「頑固」とは違う、軸になる「自分の考え方や哲学」を持ちたいのは、私なりの生き方でもある。

軸があるからこそ、他も異物も上手に取り入れられるし、ブレても元に戻れると思うから。



タイのお医者さんは丁寧なのか、そういった医療文化に慣れているのか。
私が「こういうお産がしたい」という話を、ちゃんと聴いてくれる。

「フリースタイル分娩」ができる病院だからこそ、ここで生みたかったんだけどね。

こんな面倒な話、日本の病院でしたら面倒くさがられて、飽きれられちゃいそうだねって、裕也さんと笑って話した。

もちろん健康状態によっては実現出来ないこともあるけれど、それも含め「予めイメージしておく」のは大切だと思うのだ。



そして、そんなワガママな私のバースプランを、ちゃんと聴いて、共に学んでくれたのが、裕也さん。

「お医者さん」が理解してくれる以上に、お産の現場で側にいる予定のパートナーが理解してくれているのは、何かあった時に、とても安心。

当たり前だけど、当事者の私とポコは、何かあっても、そのときにいろんな余裕は無いだろう。

これは「私が産む/私の出産」なんていう母親主体のものではなくて、「ポコが外の世界へ出て行くこと」なのだと思う。

今からこれだけ主体的に「子育て」に関わってくれる旦那さまで、すごく頼りになるな〜と感じているし、親子3人で良いお産ができそうだなって、今思っている。



そういうパートナーでいてくれることに、本当に感謝でいっぱい。



私とポコだけじゃなくて、裕也さんにとっても達成感が味わえるようなお産になれたら、よりステキだな。

「期待」はしていないけれど。
私自身、良いお産になるように努めつつ。
隣のパパにとっても、ポコにとっても。
家族3人にとって良い思い出になるような、そんなお産になるといいな。




食中毒3回目

一昨日から体調イマイチだな〜って思っていた、アレ。

またしても食中毒だった。


でも今日までお腹を降すことも、お腹が痛くなることもなかったから、今回はちょっと時間差。

タイに来て3ヶ月、3回目。

免疫の低い妊婦とはいえ、びっくり(◎_◎)

一番最初が一番大変だったけれど、2回目はほとんど気が付かない程度で、今回はその中間くらい。酷くはない。

でも臨月妊婦なのが、しんどい。

ラッキーなこと?に、食中毒にはなっても、吐き気はない体質。

むしろ今回はお腹が減るのに、
「今日は電解質の液体だけで、明日まで食べたりジュースも飲むな」
って言われているから、それがツライょ〜。


朝の健診の時点では、まだお腹も降していなかったから、
「昨日体調イマイチだった〜」
くらいで、朝は普通に健診を受診。

午後になって急にお腹を降したので、びっくりして再受診。

先生はイヤな顔一つせず、改めて診察代を取ることもなく、待ち時間もほぼ無しに、サクッと診てくれたー!!

なんて優しい先生。(T ^ T)

「昨日体調イマイチだったって言ってたもんねぇ。体重も減っちゃってたし。」

って、覚えててくれたんだー!!
今朝のこと!

そうなんです…

せっかく+6kgまで増えた体重が、今朝は+5kg無くなっていました。(´・_・`)

最近お顔のエラが出て来た気が…
なんていうか、ポコに取られているのかなぁ。Σ(・□・;)

もともと決して痩せ型ではないのだけれど、太りにくく、痩せにくい体質。

食べ過ぎたり、ジャンクなものを食べたりすると、その後身体が勝手に、食欲やなんかを調整し始める。

今回も、菌がいるにせよ、その自動調整装置の一環とも感じる。

「出産前にお腹キレイにしとけ〜」

っていうような。



お産をすると血が入れ替わるというし。

その前にお腹もキレイになってくれれば、なんだかお産で、私まで産まれ変われそうじゃないかー☆

と、前向きなような、そうでもないようなことを思いつつ。



おしりに打ってもらった痛み止め(たぶん抗生剤)のお注射のお陰もあり。

お腹の痛みは消え、降すのも落ち着いてきたので、ゆっくり梅醤番茶を淹れてみた。

頓服一口。
めっちゃ美味しかったー!


これだけで良くなったような気がする。


そして食中毒を重ねる毎に、密かにお腹の中もキレイになっているような気がする、今日この頃。

日本にいる間は、妊娠前からけっこうジャンク重ねていたよなぁ、と思い返す。

その積み重ねを、出産直前までにデトックスしているような気分の、今回新月の食中毒でした。


あとは淹れたての温かい醤油番茶と、電解質を摂りながら、明日まで様子を見まーす。