パートナーとの関係が良くない方がいたとして、
それを悪く言いたいわけではありません。
私だって、いつ何時でも良い状態というわけではないし、
パートナーや家族を通じて、自分自身を掘り下げさせてもらっているところです。
自分の目では自分は見えなくて、
自分を見るには「写し鏡」が必要です。
身近な家族は、一番自分を見せてくれる「鏡」。
長年積み重ねてきた云々で、もうパートナーとの関係がどうしようもなかったりっていうのは、
私も離婚経験があるし、辛さも含め、よくわかります。
だからこそ。
自分を大事にするために、
パートナーとの状況を通じて、
自分への理解を掘り下げて欲しいと思います。
できたら、1秒でも早いうちに。
そして溝の小さいうちに。
パートナーとの距離は、
自分自身の内側との距離でもあるからです。
ありきたりな言葉ですが、
相手を変えることはできません。
変えられるのは、自分だけ。
離婚してパートナーをチェンジすることはできますが、
向き合うべき課題に取り組んでないないうちは、
新しいパートナーを通じて、
また同じ問題と向き合うことになります。
これが「誰と結婚しても同じ」と言われる所以です。
悪かったら、悪かったなりに、
その状況を通じて、
どう自分が、相手を通じて、自分と向き合っているか。
それが自分を大事にするって言うことだと思うし、
本当の自己肯定なのです。
自分は正しい!相手が悪い!
これは本当の自己肯定ではありません。
相手を信頼出来ないのは、自分を信頼していないから。
そして自分を信頼するために、自分への理解を掘り下げるのです。
足りないものを足そうとすることは、
自分の顔をよく知らずに、
メイクを盛るのと同じ。
単純にまつ毛は長い方がいいからって、
まつ毛エクステしてみたり。
まつ毛エクステ自体が悪いということではなくて、
それ、本当に似合ってますか?
そして心地良いですか?ってこと。
むやみにまつ毛を盛るより、
清楚にくるんとカールさせるだけの方が、
似合う人もいます。
それが、本来持っているものの良さを活かす、ってこと。
日本では特に、
杓子定規にみんなが同じメイク、同じ髪色髪型、同じ服を着る傾向がありますが、
日本では特に、
杓子定規にみんなが同じメイク、同じ髪色髪型、同じ服を着る傾向がありますが、
これは「自分の良さを活かす」という発想に出会えていないからだと思います。
横並びの学校教育の下で、そういう価値観を培ってしまうので、
無理も無いですが。
「学ぶ」ことも同じです。
私もお勉強が大好きで、いろんなこと学んできました。
セミナーやら習い事やら、いろんなものに通いました。
知的欲求も満たされるし、お友達もできるし、
参考になったものもたくさんあります。
無駄だったとは思っていませんが、
ずいぶん「学び武装」をしたな〜、とは感じています。
学びすぎの頭でっかちは、盛り過ぎのメイクに通じるものがあります。
頭で理解しようとし過ぎると、
女子本来の「肌感覚で動く」ということを忘れがちになる。
子育てなんて、ほんとに頭ではできないです。
本を読んだり、人に聞く前に、まず目の前のことに対処していく。
子育ては勘が肝。
そして、さんざん学んで気付いたことは、
これって全部、他人の築き上げたメソッドであり、
他人のお話だったんだわ〜、ということ。
それに気付いたら、一度に多くは学べなくなりました。
「もっと◯◯になりたい!」という欠乏感から、
ずいぶん遠くへ探しに出たと思います。
いろんな生活習慣を、自分に課したりもしました。
そして学びの先に、今度誰かへ伝えるための資格を取ったりする。
いや、私が思うに、それ、、、資格の問題じゃないです。
どんな学びも、自分のものにできて、
初めてこうして自分の意見として発信できます。
資格があっても自分のものにできていなければ、
どんなアウトプットも、薄っぺらです。
「楽しいから」で学びに行くなら、
その先に楽しい仲間や、楽しい出来事が繋がるでしょう。
でも、なにか欠乏感を満たすために行くなら。
学んでも、その先に出会うのは、また欠乏感でしょう。
「もっと◯◯しなくちゃ!」
こう感じるのです。
横並びの学校教育の下で、そういう価値観を培ってしまうので、
無理も無いですが。
「学ぶ」ことも同じです。
私もお勉強が大好きで、いろんなこと学んできました。
セミナーやら習い事やら、いろんなものに通いました。
知的欲求も満たされるし、お友達もできるし、
参考になったものもたくさんあります。
無駄だったとは思っていませんが、
ずいぶん「学び武装」をしたな〜、とは感じています。
学びすぎの頭でっかちは、盛り過ぎのメイクに通じるものがあります。
頭で理解しようとし過ぎると、
女子本来の「肌感覚で動く」ということを忘れがちになる。
子育てなんて、ほんとに頭ではできないです。
本を読んだり、人に聞く前に、まず目の前のことに対処していく。
子育ては勘が肝。
そして、さんざん学んで気付いたことは、
これって全部、他人の築き上げたメソッドであり、
他人のお話だったんだわ〜、ということ。
それに気付いたら、一度に多くは学べなくなりました。
「もっと◯◯になりたい!」という欠乏感から、
ずいぶん遠くへ探しに出たと思います。
いろんな生活習慣を、自分に課したりもしました。
そして学びの先に、今度誰かへ伝えるための資格を取ったりする。
いや、私が思うに、それ、、、資格の問題じゃないです。
どんな学びも、自分のものにできて、
初めてこうして自分の意見として発信できます。
資格があっても自分のものにできていなければ、
どんなアウトプットも、薄っぺらです。
「楽しいから」で学びに行くなら、
その先に楽しい仲間や、楽しい出来事が繋がるでしょう。
でも、なにか欠乏感を満たすために行くなら。
学んでも、その先に出会うのは、また欠乏感でしょう。
「もっと◯◯しなくちゃ!」
こう感じるのです。